中田
吉田さん、本日は久々にお目にかかれることを楽しみにしてきたんですよ。
なんといっても、吉田さんは日本屈指の営業マンとして、つとに名前を知られた方ですし。営業という仕事は、すべての企業にとって大黒柱といってもいい存在ですからね。
起業家や若手経営者はもちろん、すべてのビジネスに関わる人々に示唆を与えていただけるのではないかと、大いに期待しているんです。
吉田
いやいや、お役に立てますかどうか。
世の中が大きく変わる中で、私が学び、実践してきたことはオールドスタイルと云われつつありますからね(笑)。
それでも、おそらく普遍的な「何か」があるはずだと信じているわけですが、ぜひ、そのあたりを中田さんに引き出していただけると幸いです。
中田
それでは早速、吉田さんのご経歴を伺っていきましょうか。私自身も当時として異例の転職経験者でしたが、吉田さんも様々な組織でお仕事をしてこられました。会社が変わっても常に高実績を上げ、営業責任者、マネジメントにも手腕を発揮されています。その仕事人としての原点がどこにあるのか、大いに関心があります。
吉田
学生時代まではのんびりしていましたからね。社会人としてのスタートから3年間が、まさに"原点"といえるでしょう。当時、米国バロース社の販売代理店としてコンピュータを取り扱っていた高千穂交易に入社したのは1969年、高度成長期の真っ只中でした。
そこで3年間、上司や先輩から基本的な営業職の立ち居振る舞いやスキルなどをとことん叩きこまれたわけです。本当に厳しかったですよ、もう初日には学生気分が吹き飛びましたから。
でも「三つ子の魂百まで」というのでしょうか、その時に叩きこまれたものが、ずっと仕事をする上での"核"になっていると思います。
中田
それは同感ですね。私も入社して3年間で学んだこと、身につけたことで今も仕事をしている実感があります。
私も右も左も分からないうちに計算室、今でいう情報システム部門に放り込まれて、上司に「常に新しいものに挑戦することの価値」を叩きこまれました。毎日、最先端の技術を掲載した英文の資料を読み、そしてそれをすぐに実戦に活かすことの連続でしたが、ハードでしたね。
今も「挑戦すること」に意欲的でいられるのは、当時に刷り込まれたおかげでしょう。吉田さんも、なかなか厳しい教育を受けたようですが、いったいどのようなことを叩きこまれたんですか。
吉田
もう、すべてです。24時間行動をともにして、仕事はもちろん、お酒も麻雀も含めて全人格的教導ともいうべき指導を受けた思いです(笑)。
その中で最も印象に残っているのが、「営業が唯一社外からお金を持ってくる部門だ」という言葉です。組織によりますが、だいたい営業1人に対して社内各部門のスタッフが7〜8人という割合でしょう。つまり、1人の営業が十分に稼いでこないとそれだけの人が食べていけないわけです。
忘れもしません、入社してまもなく1カ月になろうという4月27日のことです。当時の上司がまだ1件も契約がとれていない私を呼んで「それじゃ、みんなご飯が食べられないけど。どうするんだ?」と迫るんです。
当時の初任給が3万3千円でしたが、それすら捻出できないことを突きつけられまして。それから月末までの3日間はもう必死でした。なんでもいいからと走り回って、4万5千円の製品が売れた時はうれしかったですね。
決して十分ではないんですが、なんとか自分の給料分は稼げたと。それ以来です、営業はなんとしてでも社外からお金を稼いでこなくてはならない、と強く思うようになりました。
中田
入社直後から強烈な体験をなされたんですね。営業職としての在り方を突きつけられたわけですから。
しかし、営業としての在り方を学び、トップ営業マンとして活躍された会社を入社20年目にしてお辞めになっています。
吉田
ええ、今にして思うと、まさに"若気の至り"ですよ。まず入社して5年目にバロース社による買収が行われ、高千穂バロースとなりました。
1986年には、米国ではバロース社がスペリー社を買収して米国ユニシスが誕生するのですが、ややこしいことに日本では三井物産が51%の株を保有していたこともあって逆にバロース側が併合されることになったんです。日本ユニシスになったのが1988年でしたね。
そうなると、ちょっと面白くないのが買収された側で、私も翌年には辞めてしまったんです。38歳で横浜支店長になり、ちょっと天狗になっていたんでしょう。
中田
そこで新天地として選んだのが、タンデムコンピューターズでしたね。バロース時代には部下も大勢いらして、ご自身は指示するだけだったとうかがいます。環境が変わって、仕事の内容も180度変わられたのではないですか。
吉田
ええ、タンデムではシングルコントリビューターとしての採用だったので、1人で自己完結の成果を出すことを求められました。
見積書も企画書も自分で書いて、バロース時代の5倍は働いたでしょう。入社したばかりでタンデムの事業もマーケットも、顧客も知らない状態で、叩き上げの社員と競うわけですから、必死になって勉強もしました。
今振り返ってみると、この修羅場を経験させていただいたのは本当によかったですね。天狗の鼻も木っ端微塵でした。
中田
それはたいへんでしたね。それでもバロースで育んだ人脈には、大いに助けられたのではないですか。
吉田
いいえ、まったく今までのお客様に頼ることはなかったですね。というのも、バロースにいた頃はバロースの製品が最も良いと思って営業していたわけです。それが転職したからといって「こっちの方がいいですよ」なんていえるでしょうか。自己矛盾でしょう。ですから、10年間は過去のお客様とは仕事の話はせず、個人的な付き合いだけでした。
社長には怒られましたけれど、やはり「自分が一番いいと思うものを勧める」という姿勢を貫くのが、営業の誠実さだと思っていましたから。
中田
それでも結果がついてこなければ、その誠実さも認めてもらえませんよね。吉田さんのすごいところは、そうした誠実さを守りながら、業績もきちんと仕上げていくところです。
短期的には、そうした頑なな誠実さは邪魔になるのかもしれませんが、長期的にはやはり信頼できる人として認知され、吉田さんの営業力を支えたのでしょう。
吉田
そういっていただけるとうれしいですね。むろん製品に対しても同様で、勧めるからには「世界で一番」と惚れ込んだものでなければ嘘になると考えていました。そのためには、製品や市場、顧客をひたすら知るしかないわけです。
タンデムの製品についても、自信を持って営業できるよう、あらゆる角度から分析しました。青臭い書生論に聞こえるかもしれませんが、バロースにはバロースの、タンデムにはタンデムの強みがあり、それを必要としているところに自信を以って提供していくことが営業なのではないかと。
その考え方は今も変わっていません。
中田
吉田さんの誠実さは、人との付き合い方からも伺えます。私との関係も、かつては顧客とベンダーの関係でしたが、本当に親身になって、いろんなことを教えていただきました。
いまもこうして交流があるのは、吉田さんの誠実なお人柄に惹かれてのことです。
吉田
中田さんからそんな風に言われるとちょっと照れてしまいます。おかげさまで、新卒の時にお世話になった先輩や上司をはじめ、仕事を通じて知り合った方々とは今もお付き合いが続いています。
正直なことをいうと、折にふれて人材の引き抜きなどもいろいろと打診されたんです。でも、自分を育て、成長させてくれた会社や人に対して後ろ足で砂をかけるようなことはゆめゆめしまいと決めていました。そもそも後ろめたさがあっては、いい仕事はできませんから。
結果的には、そうしてご縁をいただいた方々によって支えられていることをひしひしと感じています。
中田
私も育ててもらった会社を退社するときは、忸怩たる思いがありましたね。だからこそ、次の会社ではその恩返しをすべく、失敗できないと思っていました。こうした誠実さをよしとするのは、時代の空気もあったのかもしれません。
とはいえ、なかなか誠実さだけで生き残っていけるような世界でもありませんよね。外資系企業の合併によるポスト争いは熾烈を極めるといいます。日本企業の合併では同じポストを出身企業別に複数用意するなど時には滑稽なほど緩やかなものですが、米国企業は組織図が先にありきで、重複すれば転属やレイオフも当たり前。
その中で、吉田さんが常に自らの立ち位置を確立し、力を発揮できたのはなぜなのでしょうか。