「明るくておおらかな太閤さん」は実は残虐な独裁者だった
著者は秀吉が実は冷酷なマキャベリストであり、信長に負けず劣らず冷酷に絶対権力者を目指したと考える。
「秀吉が大衆の人気を集めた理由は、百姓の倅から天下人へという日本史上ほかに例にない大出世もさることながら、伝えられるその性格の明るさにあったのではないかと思われる。暗く陰湿な権謀術数が日常茶飯だった戦国時代にあって、彼の行動は常に颯爽として、身分の低いものや、時に敵に対しても情けをみせる逸話も数多く伝えられている」。
「しかし残念ながら、そのような秀吉像は、真実の秀吉とはかけ離れた『創作』と言わざるを得ない。
この不世出の英雄の正体こそ、みずからの権力欲のためには手段を選ばず、非情な謀略でライバルたちを次々に蹴落としていった策士であった。あろうことか、信長が不慮の死を遂げた本能寺の変をあらかじめ想定していた可能性すら否定できない。そして権力を手中にしてからも、はむかうものに対しては信長に劣らぬ残虐行為をおこない、民衆に対しては圧制をしく独裁者だったのである」。
秀吉にまつわる「神話」を著者は、秀吉の出自、本能寺の変、そして独裁権力の掌握の三つの観点からくつがえしていく。
ところで秀吉の理解を深めるためには、秀吉が仕えた信長を動かしたその行動原理を理解しておくことが必要だ。なぜなら秀吉は信長亡き後、信長の目指した社会政治システムをほぼその通り、しかも信長と同じやり方で実現しようとしたわけだからだ。
信長の目指した社会政治システムとは
信長は天下人になるために伝統的な政治システムを徹底的に利用した。まずは足利幕府の政治的な権威を利用して公家や武家に対する統制を実現しようとした。そのために信長は足利義昭を将軍に据え幕府を再興し、義昭を傀儡として幕府権力の掌握を目指した。
しかし足利義昭は信長の傀儡に屈することを嫌い権謀術数を駆使して信長に抵抗を試みた。しかしその抵抗も武田信玄の死とともに頓挫し、信長にとって無用になった足利幕府は信長の手によって滅亡する。
足利幕府の滅亡後信長は朝廷の権威を後ろ盾に統治システムの構築を目指した。信長が企画した統治システムは中央集権の絶対王政であった。
信長の統治システムにあって大名は信長によって領国統治を委任される存在になった。これは「鉢植大名」といわれる。鉢植大名にとっては領地も領民も城郭さえも信長からの預かりもので、自らの所有物ではなかった。つまり信長は中世以降領地や領民を所有物とみなす守護大名制度を破壊し、いつでも信長の思うままに大名を入れ替えることのできる絶対的な権力を把握し、中央集権的、専制的な統治システムを創造するというまさに革命を目指したことになる。
秀吉は賎民から身を起こした
著者は秀吉の出自は農民でもなく武士でもない賤民であったという。とすればいわば村落共同体の間を行き来して財や情報を流通させることをもって生業としていたのではないだろうか。
織田政権の中にあって異例の速さで大出世をとげた武将は光秀と秀吉だ。光秀はいわば伝統的な政治システムの仕組みを熟知し、それを利用して天下人になろうとした信長の補佐役としてところを得たといえる。
一方秀吉は伝統的な政治システムを破壊し新たに重商主義的な政治社会システムを作ろうとしていた信長の補佐役としてところを得たといえる。
光秀も秀吉も信長が行った既存の社会政治構造の破壊と新しい社会政治システムの創造に貢献したことで信長から信頼され大きな権力をあたえられたということだ。
とくに秀吉は伝統社会のなかで生まれ、伝統社会を破壊する力を持ち始めた商業や物流さらには情報(インテリジェンス)に深い関心と知識を持っていたことが信長の目に留まり大出世をすることにつながったというわけだ。
本能寺の変は信長の統治システム革命に対する反革命だった
信長は光秀の既存統治システムについての該博な知識と人的ネットワークを積極的に利用し、既存統治システムを利用しながら絶対的な権力を把握していった。しかし絶対的権力の地歩を固めると同時に光秀の存在価値は次第に薄れ、新たな統治システムにおいて貢献度をあげつつあった秀吉のナンバーツーの位置が強固になり始めた。
ここで光秀は足利義昭の権威をバックに反信長の既得権益勢力を集合して反革命の意志を固め、本能寺の変に至る。光秀の謀反は突発的なものではなく周到に準備を重ねたうえでの行動であった、というのが筆者の見解だ。
「天正10年6月2日未明本能寺に信長を急襲し葬った光秀が、その後に描いていた政権防衛構想は、全国で信長の方面軍と対峙する各勢力を将軍義昭の名のもとに糾合し、信長包囲網を再現することであった。
そして実際にこの構想を確実なものにすべく、光秀は本能寺の変以前に、クーデター計画を反信長勢力に極秘に明かしていた。そのことを証明するのが、越後の上杉景勝に使者を派遣した事実である」。
しかし秀吉の電光石火の行動は、光秀が信長を謀殺し、これを機に反信長の勢力を糾合する時間的な余裕を与えなかった。秀吉のいわゆる「中国大返し」が光秀の目論見を水泡に帰させたということになる。
備中高松城の城攻めにかかっていた秀吉は6月3日には毛利方と和議を実現し、すぐに陣を引き京都目指して全軍を駆け上らせた。備中~京都までの235キロmを一日半で走り抜けたという当時の常識では信じがたい早業であった。
秀吉は麾下の全軍で京都に駆け上る傍ら、信長配下の諸将に光秀討伐の陣ぶれを出し、主君の仇討のための戦闘におけるリーダーシップを握ることに努めた。
「中国大返し」の奇跡的な成功が秀吉の天下人への道を大きく切り開くことになったわけだが、このように手際の良い行動は、周到な準備無くしては実現不可能ではなかったか。なぜ秀吉はこのように水際立った行動ができたのか。これをめぐって昨今大きな議論を呼んでいる。
少なくとも秀吉は持ち前の諜報力で光秀謀反の前兆を何らかの形で把握しこれに備えていたのは間違いない。ひょっとしたら光秀との共謀さえあったのではないかと考えることもできそうだ。
秀吉が実現した中央集権システムはこの国のかたちを今に至るまで決定づけた
秀吉は光秀を滅ぼしたのち着々と天下人への階段を上り詰めていく。上り詰めた先で実現した統治システムは信長が目指した中央集権的な絶対王政であった。中央集権的な絶対王政秩序を実現するうえで刀狩と検地が決定的に有効な施策として機能した。そしてこの統治システムを支えたのが天下人を支え、行政を担う五奉行を筆頭とする官僚群であった。
この中央集権システムは徳川幕府に引き継がれ、明治政府の統治システムもこれを踏襲することになった。現在につながる強力な官僚による統治機構はその原型を信長が構想し、秀吉が実現し、家康がさらにそれを精緻に組み立て、さらに明治政府もその骨格をそのままに受け継ぎ今に至るということになる。
実に400年を超える長期的な枠組みが連綿と今に続いているということだ。統治システムとしての日本の官僚制の凄味はこうした歴史的な背景なくしては理解できない。
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