読書ノート:松尾雅彦著『スマート・テロワール』(学芸出版社)

待望の著書が発刊された。実業に携わる方が日本農業について本格的な論考を展開したことにまずは敬意を表したい。

著者はカルビー社の経営に携わりながら、同社のビジネス戦略の要諦である原料ポテトの調達を巡って様々な破壊的イノベーションを繰り返し、その体験を通じて日本農業の抱える根本問題を読み解き、その解決策について実に深い論考を展開して、体系的でしかも極めて具体的な処方箋を描き出した。

日本農業を巡る悲観論の洪水

日本農業の将来について多くの悲観的な情報が飛び交っている。

農業の担い手が高齢化し、しかも後継者が不足していること。

政府の農業政策が長期にわたって稲作を中心に展開され、これがコメの生産過剰をまねき、多くの休耕田や耕作放棄地が政策の失敗の置き土産として残されてしまったこと。

巨大な農業国である米国やオーストラリアそしてニュージーランドなどが主導権を握るTPPがこれまで以上に農畜産物の市場開放を進めることになり、生産性が低く高価格な日本の農畜産物の敗戦が濃厚に見えていること。

何よりも巨額の補助金が投下されているにもかかわらず自給率39%の改善が一向に進まないこと。

などなど悲観的な要素を上げればきりがない。

難問あまたの日本農業にはたして起死回生の妙手はあるか?

各方面から日本農業改革案が打ち出されている。アベノミクスの規制改革、地方創生策の中にも日本農業の再生に向けて照準が向けられている政策が散見される。

農協改革、農地委員会改革、農業法人改革などが試行されようとしている。いずれも規模の拡大と農家の経営改革が中心に据えられている。

しかしこれらの政策はいずれも農業の環境ともいうべき農村の改革を意図したものではない。農村とは切り離された形で農業が独り歩きでき得るという前提でイメージされている。しかし農業は農村という環境とともに語られなければ最適解は得られない。農村抜きの改革はすべてが個別最適であっても全体最適をもたらすものではない。

農村のあるべき姿とともに農業のあるべき姿を設計しなければ農業は立ってもその環境たる農村は荒廃を極めることになる。それは農村に工業を誘致し多くの雇用創出は実現できたものの、農村が荒廃の危機に瀕している状況を経験してきたことから容易に想像可能だ。

松尾氏の『スマート・テロワール』は農業の再生が農村の再生と一体となって実現するビジョンを見事に描き切っている。そして農業の再生は農家が主体ではなく、農村に立地する食品加工業や周辺都市の小売業との協業なしにはあり得ないことが大前提で語られている。

以下にその要旨を書き出してみよう

日本を三分割してみる

筆者は日本の地域を三つのクラスターに分解する。「大都市部」「中間部」「農村部」がそれだ。この3つのクラスターはほぼ4,300万ずつの人口を擁する。もちろん面積は「農村部」が一番多く全体の80%を占める。

このように3分割してそれぞれのクラスターの比較をしてみると、これまで日本全体を対象に論じられてきたイメージとは全く異なる日本の姿が見えてくる。

例えば出生率は全国平均が1.2で少子高齢化が騒がれる根拠になっている。しかしこれを分解してみると、都市部で1.0に過ぎないが、なんと農村部では2.6にも達するのだ。

この事実から農村部の人口を増加させる政策が唯一人口をプラスに転換させることが可能になるという論点が見えてくる。

スマート・テロワール

この「農村部」を歴史環境や郷土愛などをベースに地域住民から見て一体感の持てる地域に分解すると100~150の地域ユニットに分けられる。これらのユニットの人口は10万人~70万人、平均では40万人程度になるという。

こうした地域ユニットをそれぞれの地域を、風土、品種、栽培法などが育む独特の地域特性を持った地域に、知恵の限りを使って実現しようという構想が「スマート・テロワール」だ。

水田を畑地へ転換して作物を米から穀物へ

地域ユニットの創生は穀物の生産を主体とする農業の構築から始められる。昔から五穀豊穣と言われてきたが、現在は米だけに偏った一穀農業になってしまっている。

戦後の農政が米だけを唯一の対象にして、モノ、カネの全ての資源を投下し、他の作物や畜産を強制的に止めさせてきたことが一穀物農業という怪物を創ってしまったというわけだ。

その結果耕作地は水田ばかりになり、水田の総面積は270万ヘクタールに達することになった。しかもコメの生産性はみるみる向上し、一方ではコメの消費量は縮小に向かい、コメの過剰が問題化するに至った。

いまや100万ヘクタールの水田が休耕田や耕作放棄地になってしまっている。この100万ヘクタールを水田から畑地に転換し、小麦、大豆、馬鈴薯、トウモロコシなどの新穀物を栽培すればいいわけだ。

畜産が農業革命の柱の一つになる

更に地域ユニットでは畜産も不可欠の産業として育てなければならない。トウモロコシが畜産用の飼料として活用されるからだ。またその他の穀物の皮や茎など廃棄処理されるものも家畜の飼料となる。

更には家畜の糞尿が堆肥として畑地に利用され、余剰物はバイオマス燃料として活用可能になり、地域のエネルギー源として使われる。

こうした循環型の農畜産業の展開によって全く無駄のない資源の有効活用が実現するわけだ。

食品加工業も不可欠のプレイヤーだ

地域ユニットの構成要素として農業と並んで大事な産業は食品加工業だ。食品加工業と農家が有機的な連携をすることで、地域の州民に向けた食品のうち50%程度は供給可能になり、結果として自給圏として自立が可能になる。

加工業は消費者の要求する品質規格を農家に示し、品質による格付けによって農産物の価格を変えて、品質向上のモチベーションを農家にもたらすことが可能になる。

また加工場は多くの女性の雇用を創出し、都市から農村への人口の回帰を可能にする。結果として農村部の出生率は2.5を超えているので、ここでの若年人口の増加は少子高齢化に歯止めがかかり、フランスのように人口増加のトレンドが生まれる可能性を獲得できるようになる。

そして小売業もスマート・テノワールの創生に大きな役割を果たす。小売業の棚の加工食品の40%程度を地域の農畜産品で品揃えをすることで小売業は、農家と地域住民との連結環になるわけだ。

やがて桃源郷が実現する

こうした農業革命は農村の景観を大きく変えることになる。一穀から五穀への転換はまず畑地の景観を変える、その上に放牧された家畜の姿も農村にこれまでなかった美しい景色をもたらすことになる。

かくしてスマート・テロワールが日本全土に出現すると、日本の姿が大きく変わる。

ますは少子高齢化に歯止めがかかり、人口増加も夢ではなくなる。

続いて食料自給率も現状の39%から67%へと劇的に改善される。これまで輸入に頼ってきた五穀の生産と畜産の増産が効いてくるのだ。

著者の計算では約15兆円が輸入から自給へと転換が図られる。エネルギーの自給も進み、化石燃料の輸入が大きく減少し、原子力への依存も不要になる。

そして何よりも農村が桃源郷へと変わる。都市生活者も憩を求めて、おいしい料理や美しい景観や懐かしいコミュニティに触れるためになくてはならない地域に変貌する。もちろん海外からの観光客もどっと押し寄せる。

まさにバラ色の未来図がここに展開されている。これほどまでに人をわくわくさせる政策論があっただろうか。これを読んで多くの関係者がここに描かれた未来の建設に関わることを望むに違いない。

「スマート・テロワール」実現へのマニュアル

筆者は各地でスマート・テロワールを実現する具体的なプログラムまで用意してくれている。著者の示すステップを踏めば確実に実現できそうだという気になる。まさに実業に携わってきた筆者ならではの面目躍如たる所だ。

そのいみで本書は、課題解決のメソッドを体系化し、パッケージとして提供するという、日本人離れした提案までしてくれているのだ。

ますは地域ユニットの住民がそれぞれの地域の魅力を最大に膨らませるビジョンを描くことから始めなければならない。実行するのは地域住民ひとりひとり。地域住民の自律がこのムーブメントの成否を分けることになるということだ。

追加的に考えなければならない論点

一つだけ問題点を指摘するとすれば、地域ユニットは自給自足で完結するわけではない。当然ながら他の農村部ユニットや中間部や大都市部との交易も不可欠になる。

例えば北海道の十勝地方。人口35万人のこの地域は日本全国の消費者や加工業者に向けた農畜産物の巨大生産基地になっている。

それだけの農畜産物を生産していながらこの地域の自給率は現状でたった7%でしかない。

この地域が自給生産圏になってほぼ40%の自給率までになった時に、当然それまで他地域に移出されていた農畜産物の量は減少する。そのときこれまで十勝地方に頼っていた他地域の消費者や加工業者は十勝地方に替わる供給者を探さなければならない。それはどのように解決すればいいのか。

30年もかかってようやく実現できることだから、徐々に解決が進むというように理解するということで別に不都合はないのかもしれないが問題提起しておこう。

おまけ

なお本書全体を読み進む方々は、本書を通してカルビー株式会社の強みや成長の成功要因をうかがい知ることもできるという思わぬおまけも愉しむことができる。

という意味で本書は優れた経営書としてもお勧めだ。

本書は優れた日本農業論、日本経済論、経営戦略論、そして実践経済人類学として、まさに多様な要素を包含する快著と言うべきだ。


スマート・テロワール
松尾雅彦, 浅川芳裕

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