手に汗握る逃避行。まるで映画「逃亡者」を観るような、中国の官憲からの追及を躱しながらの息詰まる逃亡生活を2年間も続けた筆者の逃亡の記録だ。
著者は中国の大学教員にして中国共産党員。もとは中国共産党中央党校の修士課程を終了したエリート。卒業後北京市の通州行政区人民政府に勤務したが現場の実態があまりに建前と乖離していることに絶望して離職し、北京工商大学の副教授として教育研究活動に転じた。
筆者は2012年ころから人権活動家の許志永の主催するNGO[公盟](公民)に参加し徐々に公民活動の中枢を担うようになった。
公民運動は「自由・公義・愛」をスローガンに掲げ、中国の社会改革と民主化を求める活動だ。この活動には絶対的な権力を持つリーダーや専従職員もいないそれ自体が民主的であり、自然発生の草の根的な活動だ。
公民活動の主たるイベントは「同城聚餐」と呼ばれる食事会だ。毎月末の土曜日の午後に同じ地域の住民が集まり、「環境問題」や「官憲の腐敗問題」などをテーマに議論する催しだ。
気軽に参加できる集まりと言うことが多くの人の賛同を呼び運動はあっという間に全国に広まった。12年末にはネットでの情報交換を通じて運動は大きく盛り上がりを見せた。
食事会と並行して行われたのが「官僚の財産の公開を要求する」運動だ。習近平の「反腐敗」運動を受けて、官僚の財産公開により官僚の特権を見える化し、腐敗の実態を明らかにすることが目論まれた。
著者はこの運動の中心となって当時香港で盛り上がった「雨傘革命」に呼応して北京で横断幕を持ってデモ行進をするイベントを企画し実行した。
こうした活動が全国的に広がるにつれて当局の弾圧も厳しく行われるようになった。
中国憲法は集会やデモの自由を認めているにもかかわらず、公民運動が民主化を求めていることから、共産党一党独裁体制を否定する運動に直結することを危惧し公民運動に積極的にかかわる人々を逮捕し、拘禁する事態に至った。
著者も逮捕の危険を察知し2013年4月から北京を脱出して以降2年間2万キロに及ぶ逃亡生活に入った。中国国内の逃亡生活は2015年5月にタイに亡命することで一応終わるが、現在なおもタイ政府が中国政府からの引き渡し要求を受けて拘束されることを恐れてタイ国内で潜伏生活を強いられている。
著者は過酷な逃亡生活の中で多くの公民活動のシンパに出会い、助けを求め、そして数知れない善意の支援によって厳しい官憲の眼を潜り抜けることができた。
こうした草の根の支援を経験する中で筆者は中国の権力につながらない市民の置かれている悲惨な状況に触れている。
例えば河北省太源の簡易宿泊所に潜伏した時、同宿してこまごまと支援をしてくれることになった若手インテリアデザイナーの肅海峰(仮名)の場合はこうだ。
肅はたまたまヘアサロンの内装工事を11万元で受注し、約2万元の利益を見込んでいたが、工事の途中で様々な計画外の出費が重なり最終的に彼の手元に残る利益はほとんど残らない状態で簡易宿泊所からの脱出は不可能になった。
その計画外の出費とはなにか。
「例えば施工を始めた数日後、市の城管(地方政府が運営する半官半民の治安維持組織)の男たちがやってきた。こちらの作業員が乗る電動バイクが路上をふさいだ罰金として500元を支払えという。わたしたちはやむなく、翌日彼らの事務所に支払いに行った。
だが、その後はたとえ駐車違反があっても罰金を要求されなかった。彼らは本気で都市環境整備のための取り締まりを行ったのではなく、単にみかじめ料をもらいに来ただけにしか見えなかった。
城管のほかにも、それから2週間ほどの間に、現地の協警(協助警察。警察業務を補助する民間人。日本の江戸時代の岡っ引きのような役割を担う)や治安管理人員を自称する男たちが合計5回もやってきて、そのたびに200~500元ほどを「管理費」の名目で掠め取った。また、市の環境保護局を名乗る男たちは、店の入り口にごみが溜まっているという名目で「罰金」600元の支払いを求めた。さらに停電のあとには、やはり市の電力関係部署を名乗る人々がやってきて、今度は「検査費」300元とタバコ2本を要求―――もはやキリがなかった。
さらには地元にチンピラとしか思えない身元不明の男たちも作業現場に10回近く闖入し、盛んにタバコをねだった。わたしたちはこういう連中が来るたびに彼らにタバコを一箱渡し、時には食事までご馳走して、期限をとってやらなくてはならなかった。さもなくばどんな目に遭うかわからないからだ。・・・
現代中国の社会で『持たざる者』は悲しいほどに無力だ。
彼らは権力を笠にきた小役人や街のチンピラに徹底していじめられ、ただでさえ少ない金銭と人生のチャンスを奪われ続けるのである」。
絶対的な独裁権力はその公的な統治機構の末端周縁に無数の疑似権力を生み出し、それらの末端に群がる偽権力が無力の市民から過酷な収奪を行う。市民は黙ってその理不尽な仕打ちに耐えなければ生き延びられないという惨状が生まれるということだ。
著者は2年にわたる逃亡生活のはてにタイへの亡命をめざし雲南省から密航を手引きするエージェントの援けを借りてミャンマー、ラオスを経由してタイへと入国するに至る。
こうした過酷な逃亡生活で、様々な厳しい困難に心身ともに打ちひしがれながらもなお著者は希望を捨てることなく、どのような時にも多くの人の善意に助けられ、それにこころから感謝をささげながら、常に前向きに進んでいる。
著者がこの逆境に耐えるうえで支えとなった言葉こそ、「君子は以て自強して息まず」(易経の言葉で、知識人たるもの自己の向上を怠るな)であった。
つまり著者を支えたのは大義を追求する強烈なエリート意識であったということだ。これほどまでに揺るぎのない確固たるエリート意識を作り上げたのはおそらく共産党員として受けたエリート教育のたまものではないか。
その教義に素直に同化した純粋な向上心こそが水滸伝を彷彿とさせる現代の武勇伝の原料であったということだ。
とすれば中国共産党の党員教育は原理主義者を生み出すという意味において体制にとっては危険な装置とならざるを得ない大いなる矛盾をはらんでいるに違いない。
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中田康雄 (木曜日, 18 8月 2016 17:39)
共産主義原理主義による体制の否定」という観点が面白い